〈Vol.4〉
心の力動
無理の最中に疲れを感じない理由
私たち臨床心理士は、うつ病や抑うつ状態、パニック障害などと思われる、実際の生活に支障をきたした人たちからお話をうかがうことが少なくありません。そうした方に発症時期を振り返っていただくと、多くの方が、「徹夜や残業などを続けて無理をしていたけれど、疲れはあってもたいしたことではないと考えて続けていた」と言われます。そして、大きなプロジェクトや納期が終了した直後、または少し経ってから、本格的に体調を崩し、気づいたらうつ病の一歩手前になっていた、というケースが多くあります。 このように無理を重ねている渦中に、体調が悪化したという意識になりにくい理由のひとつは、過労中は、脳の中に、麻薬のモルヒネに似たエンドルフィンという脳内物質が分泌されるからだといわれています。脳内物質が疲れや痛みを麻痺させ、いわゆる「ナチュラルハイ」な状態となるため、過労状態に気づきにくくなるのです。 休むという選択肢がなく、追い詰められた環境では、体調に気を配ることは二の次になってしまいます。しかし、もしもこうした考え方や行動、生活習慣などが癖になっていたとしたら、その人に染みついた傾向を改めない限り、同じことが繰り返される可能性は高いのです。こうした心と行動の癖を修正するお手伝いをするのが、私たち臨床心理士の仕事の一部でもあります。
うつ病の回復期に自殺が多いのはなぜか
私たちの気分は、短調と長調に緩やかに同調します。気分障害やうつ状態の方は、短調に長く固定しているといえるでしょう。そのため、まったく反対の波長である長調は、不協和音となって心のバランスを崩し、よりつらい状態にさせるのだといわれています。苦しいときは、短調の音楽を聴くと、気分も安定するものです。連続的なリズムも心を落ち着けます。同じ旋律が繰り返されるラヴェルの「ボレロ」や、海の波の音などが、その代表的な例といえるでしょう。 音楽療法の先生から聞いたお話があります。ある家庭で、学校に行かず引きこもっている子どもを家族が心配して、何とか気持ちを盛り上げよう、気分転換させようと、気の進まぬ子どもを旅行に連れて行ったそうです。旅行中は、子どもにも少し笑顔が見られ、喜んでいる様子だったそうで、家族は「無理してでも連れて行って良かった」と思っていました。しかし、その子は、旅行から帰った次の日に自殺をしてしまったそうです。このように、本人の気分とは違う変化や刺激を与えることで、余計に気分が不安定になることがあります。音楽療法の先生は、「だから、こうした外的なギャップをくれぐれも与えないように」という禁忌のアドバイスとして、このお話をされたのです。元気づけ方も、十人十色です。愛情や親切のつもりが、大切な子どもの命を失う結果になってしまうこともあります。心の力動を正しく知ることが、本当に大切です。 躁うつ病の方も、自殺には注意が必要です。うつ状態で落ち込んでいるときは、自殺を実行に移すエネルギーがありません。しかし、躁状態に転じ、外からは元気で行動力がついて疲れを知らないという状態で、家族が気を許したときに、自殺行為を実行してしまう危険が高まります。本当に、心の力動は複雑です。
阿部 郁子(あべ いくこ)
1995年、臨床心理士資格取得。国立病院児童精神科技術研修生を経て、公立教育相談室で小学生から高校生までの児童・生徒を中心に10年以上相談活動を続け、その後、成人の精神衛生に相談活動を移す。家族関係や身体不調の背景にある、生きづらさのメッセージを読み取ろうと研鑽を積み、医療関係者や関連機関とも連携を図って来談者がより生きやすい生活が送れるよう心がけている。