話し上手・聞き上手な人にさほど多く出会わないのは、言葉によるコミュニケーションの上達はボールのやりとりの熟練とは性格が違っているからだ。ボールは目に見えるので、投げる側の力も方向も受ける側の手のほども、お互いに、また周りにもわかる。けれども、言葉はそれが指し示すモノが見えずにやりとりされながら、相互にどれだけわかるかが決まってゆく。
話し上手の人からは、聞き手の興味をそそる話題と話しぶりが自然に受け取れて飽きない。口調そのものがセカセカしていないし、音声も聞き手に落ち着きを与える。聞いていて楽しく、なんとなく話に引き込まれてしまう。
その反対に、話し下手な人は自分のもつ知識ばかりを知己でもない他人の中で、聞いていようが/聞いていまいが関係なく、調子にのって長々と喋りまくる。また自分の身体状態や身の上話、家族のことや仕事や対人関係の悩みごと ―ごく私的なこと― を直ぐ話し出す人もいる。また、自制しつつもつい個人的なことを喋ってしまい、後でグダグダと悔やみ、悩む人もある。いずれも「口開けて腸(はらわた)見せる石榴(ざくろ)かな」である。
他方、聞き上手は、一々のレスポンスもないのに、話し手に「わかってくれているのだ」と思わせる態度をそなえている。近頃は、相手に聞かせる気持ちが薄くて、口の中で小声で早口に喋る人が多いので、聞き上手の人には十分な聴力も必要かもしれない。
その反対に、聞き下手な人は相手の話をほとんど聞いていない。とかく他人の話を終わりまで聞かないで、無関係な自分のことを呟いたり、断りもなく去ったりする。「聞く」ことが「読む」ことや「書く」ことと同様に主体的で積極的な意味をもつのを体得するのは難しいものだ。
それにしても話し下手・聞き下手な人からみると、話し上手・聞き上手はどうしてそんな風にうまくやれるのかわからない。しかし上っ面でつき合っていたのでは上手か下手かのレベルさえわからない。俗に「雄弁は金、沈黙は銀」というけれど、とかく口数の多い人は軽佻・浮薄に見られる。だがお喋りの人の素直さに魅かれることもある。他方、黙っている人は何か内容を秘めており、慎み深いと思っていると、実は何もなくて空っぽの場合もある。
社会での対話の原則は、「自分の身の周りのことや仕事の話はしない。話すならテレビや新聞や趣味や飲食のこと…しかしその批判はしない。聞くなら相手の話に相槌を打つか聞き返すだけにする。様子を見て、言っても安全そうなら言いたいことを小出しに言え」と説く人がいた。だがこれで満たされる人がいるだろうか。こんな気遣い無しに話せて、傾聴的な態度もとれるようになると期待できる場が一つだけある。心理カウンセリングはそういう特別な場だろう。
1952年、東京文理科大学心理学科卒業。法務技官として少年鑑別所勤務の後、国学院大学文学部教授、筑波大学心理学系教授、文教大学人間科学部教授を経て、現在、筑波大学名誉教授。主著『心理劇と分裂病患者』(星和書店、1984年)、『集団臨床心理学の視点』(誠信書房、1991 年)、『新訂 ロールプレイング』(日本文化科学社、2003年)ほか多数。2011年より、カウンセリングオフィス・ヒロ顧問。